シンプラル法律事務所
〒530-0047 大阪市北区西天満2丁目6番8号 堂島ビルヂング823号室TEL(06)6363-1860
MAIL    MAP


論点整理(表現の自由)

論点の整理です(随時増やしていく予定です。)

表現の自由(佐藤幸治)
◆1 総説
憲法21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。A検閲は、これをしてはならない。」と規定する。

「表現の自由」は、@個人の人格の形成と展開(個人の自己実現)にとって、また、A立憲民主制の維持・運営(国民の自己統治)にとって、不可欠であって、この不可欠性の故に「表現の自由の優越的地位」が帰結される。(佐藤幸治「日本国憲法論」(以下「佐藤」とのみ引用)249頁)

「表現の自由」は人間の精神活動の自由の実際的・象徴的基盤であるとともに、人の内面的精神活動の自由や人身の自由や私生活の自由などの保障度を国民が不断に監視し、自由の体系を維持する最も基本的な条件であって、その意味で「ほとんどすべての他の形式の自由の母体であり、不可欠の条件である」(カードーゾ裁判官)(佐藤249頁)

また、構成的原理としての国民主権は、統治制度の民主化を要請するのみならず、統治制度とその活動のあり方を不断に監視し問うことを可能にする「公開討論の場」が国民の間に確保されることを要請する。集会・結社の自由、いわゆる「知る権利」を包摂する表現の自由は、国家からの個人の自由ということを本質としつつも、同時に、公開討論の場を維持発展させ、国民によるよる政治の運営を実現する手段であるという意味において国民主権と直結する側面を有している。(佐藤396頁)

◆2 「表現の自由」の保障の性格と内容 
◆3 「表現の自由」に対する制約の合憲性判断基準 
■(1) 総説 
表現の自由の「優越的地位」に照らし、一般に通常の合憲性推定の原則が排除され、むしろ基本的に違憲性推定の原則が妥当し、その合憲性判断についても、基本的人権の制約に妥当する「合理性」の基準によるべきではなく、したがって事件ごとにあらゆる利益を衡量する「個別的利益衡量」に依拠することなく、変動する政治社会状況から表現の自由を守るに足る厳格な審査を可能にする客観的な判断枠組・基準を確立し、それを遵守しながら具体的な判断を行うことが要請される。そして、憲法は「検閲」の禁止を明記してこの点を示唆している。(佐藤254頁)

尚、米国でも、ニューヨークタイムズ社対サリバン事件判決(1964年)は、公務員の公的活動にかかわる名誉毀損事件では、被害者の方でその言説が「現実の悪意」をもってなされたこと(虚偽であることを知っていたか、また虚偽か否かを不遜にも顧慮しなかったこと)を立証しなければならない、との法理を打ち出した。この法理の基礎に据えられたのは「誤謬を含む陳述は自由な討議において避けがたいものであり、表現の自由が『息をつく余裕』をもつためにはそれも保護されなければならない」という考え方であった。表現の自由が元来「壊れやすく傷つきやすい」点に着目したこの「萎縮的効果」論は、名誉毀損の文脈においてのみならず、表現の自由の保障の全般を貫く基礎的哲学と解すべきものではないかと思われる(毛利透)。(佐藤254頁)

■(2) 事前抑制の原則的禁止の法理と「検閲」 
事前抑制とは、広義においては、表現行為がなされるに先立ち公権力が何らかの方法で抑制すること、および実質的にこれと同視できるような影響を表現行為に及ぼす規制方法をいう。この方法は、@情報が「市場」に出る前にそれを抑止するものであること、また、A手続上の保障や実際上の抑止的効果において事後規制の場合に比べて問題が多いこと、から、憲法による「表現の自由」の保障には、事前抑制の原則的禁止が含まれるということは一般に承認されている。(佐藤256頁)
司法による事前差止について、北方ジャーナル事件で、最高裁は、公務員または公職選挙の候補者に対する評価・批判などにかかわる表現行為について、(1)@その表現内容が真実でなく、またはAそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であって、かつ、(2)被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときは、例外的に事前差止も許されるとする。同判決は、また、仮処分命令を発するについては「口頭弁論又は債務者の審尋を行い、表現内容の真実性などの主張立証の機会を与えることを原則とすべきもの」と述べ、当然のことながら手続保障にも配慮している。(佐藤257〜258頁)
■(3) 漠然性故の無効の法理(明確性の法理) 
人の行為を規制し処罰する法律が明確な法文構成をとるべきことは、およそ憲法13条ないし31条の要請するところ。but
「表現の自由」の「優越的地位」に照らし、表現行為に対する萎縮効果を最小限にすべく、特に明確性が厳格に要求され、漠然不明確な表現規制立法は原則として文面上違憲無効とされなければならない。
漠然生故の無効の法理(明確性の法理)
最高裁@徳島市公安条例事件判決:
「刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法31条に違反するものとみとめるべきか」は、「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読み取れるかどうかによ」る。
最高裁A税関検査訴訟判決:
「表現の自由を規制する法律の規定について限定解釈をすることが許される」要件として、「その解釈により、規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかにされる場合でなければならず、また、一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象になるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができるものでなければならない」
■(4) 必要最小限の規制手段の選択に関する法理 
基本的人権の制約は最小限のものにとどまらなければならないということは、憲法13条の要請するところ。
「表現の自由」については、その「優越的地位」に照らし、特に、@その制約が過度に広範にわたっていないか、Aより制限的でない他の選択しうる手段が存しないか、が厳密に問われなければならない。
T:過度の広汎性故の無効の法理
U:より制限的でない他の選択しうる手段の法理(LRA(less restrictive alternative)の法理)
T:過度の広汎性故の無効の法理
←そのような制約の存在自体が本来憲法上保護されるべき表現行為にも萎縮効果を及ぼすことを理由とする。

事件当事者本人の表現行為に適用された場合にその制約が合憲であるとしても、第三者への適用が違憲となることを理由として、その当事者は当該法律(規定)の違法性を争うことができ、裁判所はその合憲性を文面上審査し、理由があると認めるときは文面上違憲無効となしうる。
U:より制限的でない他の選択しうる手段の法理(LRA(less restrictive alternative)の法理)
〜表現の自由を規制する場合に、政府目的を達成するうえでより制限的でない代替手段があるときにはその規制は許されないとするもの。
■(5) 表現の内容に関する規制と時・場所・方法等に関する規制 
表現内容に着目した内容規制は、とりわけ権力にとって都合の悪い表現内容の恣意的抑圧の危険を孕むが故に厳格な審査が求められ、時・場所・方法等の規制にかかわる内容中立的規制の場合はより緩やかな審査で足りる。(佐藤261頁)
表現行為の規制については、まず、事前抑制の原則的禁止と「検閲」漠然性故の無効の法理必要最小限の規制手段の選択に関する法理の観点からの精査を行うとともに、
その実質判断に関しては、個別的利益衡量のす方に安易に寄り掛かることなく、規制の対象や態様などに応じて、表現の自由の保障を確かなものとするたんめにアメリカの判例・学説上案出されてきた「やむにやまれざる政府利益」、「明白かつ現在の危険」定義づけ衡量ないし範疇化などの諸法理によることを考えるべき。
「明白かつ現在の危険」の法理
政府が人を表現行為の故に処罰することができるのは、政府が憲法上防止することができる実体的実害がんもたらされる明白にさし迫った危険の存する場合に限られるとするもの(ホームズ、ブランダイス裁判官)。
範疇化の法理
個別的文脈のいかんを問わず一定の範疇に属する表現は絶対的に保護されなければならないという発想に立つもの。
アメリカのブランデンバーグ判決が、オハイオ州刑事サンディカリズム法(政治的変革達成の手段として犯罪・テロなどの必要の唱道を禁止する)につき、「単なる唱道」と「さし迫った不法の行為のせん動」とを区別していないと難じ、「唱道がさし迫った不法の行為をせん動または引き起こすことに向けられ、かつ、かかる行為を実際にせん動または引き起こす見込みのある場合を除き」憲法上禁止できないと述べて文面上無効とした例にみられる。
◆4 情報提供作用に関する制約 
◆  ◆5 情報受領作用に関する制約 
◆  ◆6 情報収集作用に関する制約 
◆7 マスメディアと国民 
 集会・結社の自由
◆1 総説 
「集会、結社の自由」は、集団としての意思を形成し、その意思実現のための具体的行動をとることをその内実とするもので、「表現」と同一線上にある。(佐藤284頁)
◆2 「集会の自由」の保障の性格と内容 
◆3 「集会の自由」の限界 
■(1) 制約に関する基本原則 
■(2) 公園・市民会館での集会 
公園や市民会館での集会の不許可について、最高裁は、
@「管理権に名をかりて実質上表現の自由又は団体行動権を制限することを目的としたものとも認められない」として不許可処分を正当とし(皇居外苑使用不許可事件判決)(佐藤286頁)、あるいは
A妨害による混乱を理由に公の施設の使用を拒否できるのは、「警察の警備等によってもなお混乱を防止することができない特別の事情がある場合に限られる」として不許可処分を違法とする。(神尾市福祉会館訴訟)(佐藤288頁)
■(3) 道路における集団行動 
   


表現の自由(毛利透)
◆第一 表現の自由論は「大きな憲法論」なのか?
大きな憲法論:市民感覚とは相当にずれた「上から目線」でなされる議論
小さな憲法論:政治の場では見逃されがちな日常的な小さな憲法問題・人権問題と取り組む
◆第二 「小さな司法」適合的な理論構成の可能性 
大きな司法:憲法政治全体の健全化を指向する「マクロの正義」や「適正手続」の実現を目指す司法像
小さな司法:具体的事件の解決によるミクロの正義の実現と真実発見を自己の任務とするもの
◆第三 表現の自由論はやはり「大きな」話ではないか
■一 建て前としての「大きな司法」と現実とのギャップ
すくなくとも学説は、一見「小さな」問題が政治過程という「大きな」問題と関連していることを示し、裁判所の一般論lとしての二重の基準論に訴えかけるという途を堅持すべき。
たとえ一部の偏った考えをもつ少数者による言論が問題となっている場合であっても、表現の自由制約を「小さな司法」のレベルで処理することは、・・・事案によってそれが表現者にとって有利な訴訟戦略となる可能性は否定できなおとしても・・・当該事案の潜在的「大きさ」を見逃す危険がある。その結果、表現の自由を主張する側は、構造的に不利な立場に追い込まれるのではないか。
■二 政治過程への影響論としての萎縮的効果論 
「小さな」表現規制も「大きな」問題を投げかけることを示すための一つのキーコンセプトは、萎縮的効果論。
芦部信喜は「言論に対する制約が当該事件における特定個人のみならず、他の不特定の人をも威嚇する一般的な働きをすること」を考慮して、比較衡量において「言論の利益をより一般化」することを求めた。
表現制約が生じさせる萎縮効果に敏感であるべき理由は、表現活動が民主政治に不可欠であるにもかかわらず、実際にはほとんどの場合政治に対して影響を与えないという、その必然的ジレンマに存する。表現活動は万に一つの可能性にかけた行動であるため、活動の意欲は制裁のリスクに敏感に反応して低下せざるを得ない。
⇒個別の事案解決においては、個々の表現活動が民主政治全体への貴重な貢献であること、それを禁止するkとが萎縮的効果を通じて活発で豊かな討論の場の縮小、民主政治の機能低下を生み出す危険があることを考慮に入れる必要がある。
■三 他者への影響力行使の遮断という「大きな」問題性
表現活動は、他者の精神に働きかけることによって民意を流動化させ、その未来を原理的に予見不能とする。
どんなに小さな規模の表現であろうが、現在の権力者にはそれは常に自分の未来を脅かす恐怖なのである。
このような恐怖によって制約が行われている、あるいは行われていると疑われる事案は、制約を受ける側としても、そのようなものとして正面から受け止め争うことが求められる。
なぜなら、そのような恐怖によって表現を抑圧することは、民主政治の理念に原理的に反するからである。
議論による政治は、常に将来の政策変更の開放性を維持しておくことをその前提として求める。未来の可能性を限定しようとする制約は、どんなものであれ民主政治への原理的挑戦なのであり、だからこそ、それを許容することは政治過程全体に対してインパクトを持たざるを得ない。
だとすれば、個別の事件における表現制約が、一見そうは見えなくても、政治過程全体に波及効果を有しうる「大きな」意味をもっていることを示していくことこそ、学説、そしてそれと協働する法実務の役割。
事案を政治過程全体との関連から切り離して「小さい」ものとして裁判所に提示しても、問題となる個々の表現活動の意義は評価されにくく、勢い、利益衡量において、制約理由として主張される私的・公的利益の方が優先されてしまうことにある。
このような構造的傾向がある以上、少なくとも表現の自由制約については、「小さな司法」観を前提に個別事例ごとにこつこつ「勝てる」主張を探していくという作業とならんで、その制約がもつ「大きな」問題性を明示する作業を怠るべきではない。
◆第四 内容に基づく規制原則禁止の確立のために 
■一 扇動罪規定に即して 
「表現の内容が他者に対して与える影響を表現制約の理由としてはならない」という原理が確立されていない。
違法な行為を他者にそそのかす煽動行為をどの程度処罰することが許されるかは、表現の自由の古典的問題であり、周知のとおりアメリカの表現の自由法理は何よりもこの点を巡る論争を通じて発展してきた。
「明白かつ現在の危険」や「ブランデンバーグ・テスト」という有名な基準は、表現の内容が社会秩序にとって危険なものだというだけでは処罰の理由にならないという点で共通。
表現そのものが危険だという立場は、表現された内容が他者を説得するという根拠のない前提をとっているからである。表現の受けてはそれぞれ自律した個人として表現内容を評価するのであって、その人々がどのような反応を示すからh、誰にも予測できない。むしろ普通に考えれば、一片の言動が個人の心を動かすということは非常に起こりにくい。したがって、表現活動そのものが社会生活に対する危険を引き起こすことは、通常は考えられない。
だとすれば、表現者の自己の意見を人々に伝えたいという思いの実現や、人々の思想のきっかけを与えるという利益の観点からして、表現の自由を原則として認めるべき。
■二 内容に基づく規制とは
芦部教授:
二分論院おける内容に基づく規制とは
「ある表現(言論)をその伝達するメッセージを理由とする制限するもの」「規制目的がある表現の「伝達的効果」(communicative impact)にかかわる規制」
(a)表現が含む「特定のメッセージもしくは見解」を理由とする場合と、
(b)その表現を「知ることによって惹起される効果」を理由としてなされる場合
の双方を含む。
前者は、政府批判をまさにその内容が政府にとって気に入らないからという理由で禁止するものであるのに対し、
後者は、表現が人々に有害な影響を与えるという理由で禁止する。
■  ■三 猿払事件判決の二分論の問題点 
日本の中央・地方の公権力が実際にかなりの程度民意に敏感であることから、ある表現に接する人々が実際に有する不快感に「民主的に」対応してその表現を止めさせようとすることが、今日の表現規制のかなりの程度を占めている。
芦部
「表現の自由は、自己実現の価値を基本に置いた自己統治の価値によって支えられている」
民主制は、お互いに主張をぶつけ合い吟味しあう中で自己の生き方を形成できる個々人を前提とし、そのような人々の議論の中から生まれる民意によって自己統治を確保する。表現が受け手に与える影響を表現規制の理由としていはいけないという原則は、その帰結である。
理論的には、表現内容が受け手にもたらす反応を政府が一方的に認定すること自体に、より根本的な問題が存する。
表現内容が人々に与える、実際の、あるいは想定された影響を理由とする表現規制は許されない、という原則が、日本では未成立。
この原則なしで個々の事案ごとに利益衡量が行われ、ごく少数の支持しかないような表現の利益と公益あるいはそれを快く思わない人々の利益とが秤にかけられると、政治過程を動かすとは想像できない前者の利益は軽く見積もられざるを得ない。
このことが、二重の基準論の一般的採用にもかかわらず、日本の判例が表現の自由保護的と評価されない大きな原因となっている。
■四 判例の活用可能性 
市民会館における集会を「公の秩序をみだすおそれ」を理由として不許可とできる要件について、泉佐野市民会館事件最高裁判決は、集会の自由の観点から、それが対立集団の激しい反発を招くことが予想される場合であっても、不許可とするには「単に危険な事態を生ずる蓋然性があるだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要である」とした。

集会が発する政治的メッセージがもちうる効果を理由として制約を加えることに対する慎重な姿勢を示す判決だと理解できる。
その場の表現に感情的に反発する人々に対しては、同様に表現の場を与えるのが管理者としての自治体の責務であり、その人々の感情をそんたくして表現行為を規制することは、あいうる将来の民意変動の可能性を閉ざす行為として「大きな」話として許されない。
また、実際に苦情が寄せられたとしても、自治体がそれに対応して表現を制約することは、公権力が一部の人々の意見を自らの行動の理由として引き受ける内容的制約に他ならない。そのためには、単なる不快感ではなく、内容的制約を正当化する理由が必要であり、単に講義が寄せられたということがそれにあたらないのは、いうまでもない。
国家公務員の政治的行為禁止についての近時の最高裁判決(堀越事件、宇治事件)は、政治活動の自由が「民主主義社会を基礎付ける重要な権利」であるとの立場から、禁じられる「政治的行為」を「公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが、観念的なものにとどまらず、現実的に起こり得るものとして実質的に認められるもの」へと限定した。

表現内容がもたらす効果を理由として規制を及ぼすには、その効果が弊害を引き起こす危険が「現実的」「実質的」に存在しなければならないという一般論を背景にしていると考えることは十分可能。
すくなくとも政治的行為の禁止については、それが表現のもたらす効果に着目した制約であることを考慮して、制約を正当化するための弊害の「おそれ」の程度を上げた。
最高裁が繰り返し認めるに至っている、民主政治との関連での表現の自由の重要性という一般論を手がかりに、判例を発展させるかたちで、表現が受け手にもたらす効果は表現制約の理由にならないという原則が確立されるように働きかけていくことも必要。