シンプラル法律事務所
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論点整理(死刑制度について)

論点の整理です(随時増やしていく予定です。)

死刑(犯罪者処遇の諸問題:平野龍一)

  ◆はしがき 
死刑も刑罰⇒犯罪との関連において考察しなければ、その本質を把握することはむずかしい。
犯罪も刑罰も1つの社会現象⇒社会の思想的・経済的・政治的基礎から理解するのでなければ理解できない。

死刑を刑罰論の一環として、その社会的・思想的地盤から理解し、犯罪との関連において、現在の死刑を批判。

歴史批判的方法
  ◆一 絶対主義国家と死刑
  死刑が濫用され、種々の残虐な執行方法が使用されたのは、中世末期、絶対主義国家成立当初に限られた特異な現象であって、中世全般の特徴ではない。
  中世前期:メロヴィング朝時代:
死刑は現行犯の場合と反逆罪の場合に限られていた。
当時の刑罰制度は加害者が被害者に贖罪金を支払う贖罪金制度を中心。

私刑は極めて例外的な事象。
  カロリング朝:
死刑の範囲も多少拡張。
国王の権力の拡大に伴う公刑罰の発展。
「都市の平和」に違反した者を死刑。

死刑は次第に増加し、12、3世紀の刑法においては、かなり多くの犯罪について死刑が規定。
but
死刑執行の増加を意味しない。

死刑が規定されていても、当事者贖罪金によってこれを贖うことが一般に認められていた。
but
農奴に対する死刑は行われていた。
  15・6世紀に、死刑は驚異的に増加。
イギリスのヘンリー8世の治世に、7万2000人の窃盗犯人が死刑に。
エリザベス期には8万9000人が死刑に。
当時のイギリスの人口は約300万人。

執行方法も残虐化:
火焙・車裂・石打など。

財産犯に対して広く認められていた。

大量の浮浪者群の発生。
リヒアルト・シュミット:
@いかなる種類の刑罰が用いられるか、という問題と、
Aいかなる行為に対していかなる程度の刑罰が科せられるか(=刑罰量定の原理の問題)
とは一応区別して考えるべき。
@は主として社会経済的要素の影響を受け
Aは国家形成によって左右される。
大量の浮浪者群の発生⇒刑罰体系は財産系中心から、身体刑・生命刑中心に
興起しようとする市民階級は、封建的身分的な栄養に代えて、財産を唯一最高の価値とし、強烈にその保護を要求。
人間が1つの生産力としてだけしか捉えられていないならば、その生産物に対する償いとして、人間の生命が犠牲にされるのも、当然なことである。
絶対主義国家の後記になると、死刑はかならずしも多く用いられたわけではなかった。
市民階級が支配権を握り、自己の欲求を追求しさえすれば「神の見えざる手」によって調和が保たれる⇒死刑が無用野蛮な刑罰。
その社会的基盤の上に、ベッカリーア、ルソー、カントの刑罰論。
国家権力の増大、とりわけ、絶対主義国家の成立による刑事司法の恣意化⇒刑罰量定の原則も変化。
   
  ◆二 旧派刑法学と死刑 
    市民社会の観点形態である個人主義・自由主義

絶対主義国家の恣意的な刑罰にはげしい反撥
およそ何故に国家は個人に対して刑罰を加えることが許されるかの解明を要求
  国家契約説:
国家を個人の意思に基づく契約によって成立するものと解することによって、国家による強制もまた究極において個人の意思に基づくことになり、個人の意思以外に権威を認めない、個人主義の要請を満足させる。
  ベッカリーアの死刑廃止論:
各人がその自由の小さな割前を差し出した場合に、あらゆる財産中最も貴重な生命をも賭けたものと考えていいものであろうか。もしそうだとすれば、この原理と人間が自殺の主体となることが許されないという他の原理とを如何にして調和することができよう。
vs.
個人の意思に基づくか基づかないか、の判断以外に、許されるか許されないかの判断は存在し得ない。
「国家契約に含まれてよいか否か、が問題なのではなく、国家契約に含まれ得るか否かが問題」」
but
ベッカリーアは、含まれていたとは思われない、とする。
ルソー:
自分を殺してもよいと同意する者はいないであろう。しかし、自分を殺してもよいと同意するわけではなく、自己を護るために、もし殺人者があらわれたときは、その者を殺してよいと同意する。
「自分が死ぬことに同意するのではない。殺人の犠牲とならないために、自己が殺人犯人となった場合には死ぬことに同意するのである。」
  平野:
国家契約とは、現実に行われた、歴史的な事実としての契約ではない。
国家による強制の正当性を試験するための仮説。

強制を加えられるその瞬間において、理性的に考えたとき、そのような強制を内容とする契約が結ばれうるであろうか、が検討されなければならないようなもの。
いわば、各瞬間において更新を許されるような契約。
ベッカリーアが、現実にその個人が同意しているであろうか否かを考えて死刑を否定するのは、カントのいうごとく詭弁のそしりを免れない。
ルソーが、かつて同意したが故に拘束されると考えるのも、まだ至らざるところがある。
カント:
国家契約のこjのような性質を正しく理解していた。
「もしも余が犯人として余に対する刑罰法規を作成するならば、それは余の中における純粋な法的立法的理性であって、それが犯罪能力者としての余、したがって他の人格者として余を刑罰法規に屈服せしめるのである」
として、死刑を肯定する。
「余がある人を殺害するとき余は処罰されることを欲するのである、ということは、余は一切の他の者と一緒に、国民の中に犯人があるならば当然刑罰法則となるところの法則に屈服する、ということ以外の何ものをも意味しない。」
新カント派は2つに分かれる。
@西南学派のラートブルッフ
Aマールブルグ学派のコーエン
ラートブルッフ:
社会契約は各人が自己の利益を護るためにやむを得ない限度で、その利益を供出したものである。たとえ僅かでも利益が残っておれば、その利益を護ために、他の利益を供出することもありえようが、残る利益が全然なくなってしまえば、護るべき利益はなくなる⇒そのために利益を供出するということも、論理的にありえない
⇒死刑に対しては、論理的に同意し得ないはず。
コーエン:
帰責と刑罰は決して、自己保存の限界を越えてはならない。
自己保存はそれ自体と同じく自然的な個人を不可欠の前提とする。
⇒死刑の否定。
平野:
個人主義もこれを論理的に徹底すれば、ラートブルッフやコーエンのいうごとく、死刑の否定に到達せざるを得ないであろう。
カントの哲学は、個人主義乃至人格主義。
その人格に対する無限の尊敬⇒
@凡そ犯罪人格を破壊する絶対的犯罪とAその外の相対的犯罪に分けさせた。
そして、絶対的犯罪に対しては、「生命に対しては何等の等価物もない、人を殺した者は死ななければならない」と叫ばせた。

財産犯に対する死刑が横行したのに鑑みるとき、極めて高く評価されなければならない。
近代精神を哲学的に基礎づけようとしたドイツ観念論の貴重な収穫。
but
この人格の尊重は何故犯人の人格にまで及ばなかったのであろうか。
「人を殺した者はしななければならない」というタリオ(=同害報復)は、人格の原理と論理的な関連は見出し難い。
個人主義の原理を論理的に貫くならば、ラートブルッフやコーエンのように、死刑否定におもむかざるをえない?
カントにおいて、「理性」は個人的なものではなく、普遍的なもの。
その普遍的理性の定言的命令として、死刑が理解される。
but
カントにおいてはそのような普遍主義の倫理の1内容として、その理性の担い手である個人の破壊に対して死刑が要求される。
ルソーが死刑を肯定したのも、その普遍意思が普遍的なものであったから。
ここにいう「普遍」とは、個人を超えた団体を意味しない。
個人を超えたものではあるが、ロートブルッフのいう超個人主義ではなく、その超人格主義に近い、「普遍的な理性乃至(ないし)法そのもの」。
個人主義においても、経済的な利益のみを利益と考えない限り、このような普遍的なものの存在を認めざるを得ないことを、そうして、その立場からは必ずしも死刑否定の論理的結論がでてくるものでないことを、カントは示してくれているように思われる。
  ◆三 新派刑法学の発生と死刑 
  資本主義経済の発展⇒多くの貧困なプロレタリアートが発生、累犯者の激増⇒積極的な刑事政策を採用して社会を防衛する必要⇒新派の刑法学。

刑罰はもっぱらその効果という観点から考察された。
何故そのような刑罰を加えることが許されるのか、という問題は全く等閑視されている。
否、有効であれば直ちにその刑罰は正当だとされている。
有効性如何によって、刑罰の正当性が決定される。

刑罰の木庭とする社会防衛の「社会」がそれ自身において価値を持つ、個人を超えた実体として考えられたから。
それをさらに個人の意思に還元させる必要はない。
〜個人主義から、団体主義への転換。
  ロンブローゾ:
生来犯罪人の排除方法として、死刑が最も完全な方法であることを率直に認めた。
フェリー:
死刑という事は自然に拠って宇宙のあらゆる部分、宇宙生活のあらゆる時に示されている。
それは権利と絶対的に矛盾するものではなく、他人の死ということは、それが絶対的に必要な場合には全く正しいものである。たとえば個人的にせよ、社会的にせよ、正当防衛がそうである。・・・・かつ進化の宇宙帝法則がわれわれに示すところに従えば、各種生物の進歩は生存競争に不適当なものの死という不断の淘汰によるものである。・・・
リスト:
刑罰に威嚇・改善・隔離の三作用を認め、改善不能の状態犯人は、隔離すべきものとしている。
but
「われわれは死刑を好まないから」という理由で無期刑を主張。
リストの弟子のリーブマン:
「この争い難い害悪(=死刑)を容認する権利を立法者が持つのは、他の方法によってはその価値の高い法益と利益を守ることができないときだけである」

必要性が正当性を決する。
隔離という点だけでは死刑も無期刑と大差ない。
死刑を廃止しても犯罪が増加しない。
⇒死刑は廃止されるべき。
  「実証的」方法について:
統計によって、一定の条件のもとにおいて、一定の事実が発生した、ということは証明できるが、その条件がなかったならば、どうなっていたであろうかを、このことから直ちに結論することはできない。
とくに、犯罪の増減は、複雑な社会的原因・個人的原因の複合によって決定されるのであって、刑罰の種類・軽重によって、直接に影響を受けることは、必ずしも大きくはない。
否、死刑を存置廃止する立法活動自体が、死刑を増減させる社会的条件の産物⇒死刑が廃止されるような時に犯罪が減少し、死刑が増加する時代に犯罪が増加するのが、むしろ当然。
死刑に威嚇力があることは統計的にこそ証明できないが、否定できないように思われる。
エクスナがいうように、「一定の行為がとくに死刑に価するものとして、国家によってとりあげられ、特殊の法のもとにおかれているという表象は、国民の観念およびその道徳観念や行動様式の発展にとって全く無意味でありえない。この効果は、その犯罪が他の重い犯罪と同列におかれたならば、次第に消滅してしまうであろう」。
死刑の威嚇力とは、このように間接的・持続的に国民の規範意識に影響を及ぼすことによって、力を発揮するような性質のものである。
これを短期的に統計的に証明しようという、「実証的」な方法によって、証明できないのは、むしろ当然といわなければならない。
  リーブマンの死刑廃止論の真の根拠は、実証的な無用論にあったのではなく、犯人をも人間らしく取り扱って、これを社会に復帰させようという彼の人道主義にあったのではないか。このような人道主義が、彼をして単なる改善刑を出でて、教育刑を主張させ、死刑廃止を叫ばせたのではないか。
平野:
たしかに、犯人を人間らしく取り扱い、刑罰を人道化したのは、新派の大きな功績。
カントによって、被害者の人間性が発見され、新派によって、加害者の人間性が発見された。
but
この際の人間性とは何か、ということを明確にしておく必要がある。
新派の人間観:
犯罪人は主として生物学的・病的な欠陥によって、必然的に犯罪を犯さざるを得ない人間であった。
それは倫理の主体として考えられた人間ではない。
このような人間を人間らしく取り扱うとは、極言すれば動物愛護と異ならないのではない。
この場合は、ヒューマニズムというに価せず、むしろヒューマニタリアリズムにすぎないのではないか。
このような意味の人道主義でさえも、新派の実証主義と一致し得るのであろうか?
むしろロンブローゾ、フェリーの赤裸々な社会防衛主義の方が本来の姿。
それが一転して、個人を倫理の主体として、価値の根源とする個人主義にすりかえられるとき、もはや新派の立場は放棄されていると言わざるを得ない。
リーブマンの立場は、更に論理的に徹底すれば、ラートブルッフの個人主義的立場に至る。
  ◆四 わが国における死刑論 
    花井:近世初期の個人主義的立場からの反対
勝本:新派の原型
牧野英一:改善刑をでて教育刑
博士の教育刑論そのものの中に、無意識的にロンブローゾ、フェリーの死刑奨励論が残存していて、現実との妥協としてではなく、その論理自体として、あえて、死刑廃止を叫ぶことをさせなかったのではないだろうか。
武藤:教育刑と死刑との矛盾を正面から衝かれる
木村:この新派の立場に立ちつつ、最も熱心に死刑廃止を唱える
but
その後死刑も教育刑
but
新憲法施行と同時に、はげしく死刑を攻撃。
vs.
憲法31条は死刑が行われることを予定している(平野)。
  新派の刑法学者が、死刑廃止に傾くに反して、旧派の学者は死刑肯定に傾く。
ただその中にあって、死刑廃止を主張するのは滝川博士。
死刑肯定論の論拠とされるラーバントの「国民的法律観念は、死刑の唯一のしかし完全にして十分な根拠である」ということばを逆にとって、死刑廃止の方が、進歩的な国民観念であるとしたのは、形式論理ならぬ論理の鋭さを思わせる。
vs.
@死刑廃止の方が、進歩的な国民観念であるか直ちに断定できない。
A野蛮なものでも、野蛮なものとして1つの社会的機能を営むこともありえる⇒ただ野蛮だといい進歩的でないといっただけでは「単なるヒューマニズム」にすぎないとの批判。
  応報刑の倫理的意味を強調する学者は、死刑肯定に傾く。
  小野清一郎博士:
「・・・抽象的に死刑を否認し去ろうとするのは浅見な人道主義又は個人主義的啓蒙思想に基づく主観的な見解であるにすぎない。客観的文化を重んじ、現実の政治的必要を認識する者は、そう単純に之を否定し去ることを得るものではない。・・・死刑を絶対的に必要なものとするのでもなければ、大に死刑を行うべきであるなどというのでは因よりない。反対に、客観的文化そのものが死刑、否一切の刑罰のないことを理想とするであろう。「刑は刑なきを期する」ものである。・・・国家的秩序と人倫的文化とを維持するため絶対に必要である場合の外、死刑は之を廃さなければならぬ。制度として之を存する場合にもその適用が極度に慎重でなければならぬことは勿論である」。
不破博士:
「・・・然し刑罰制度は元来が人間性の宿悪にその根底を置く。・・・伝統的な刑罰の観念は幾多清算せられ止揚せられねばならぬけれども、その本質を正義に基づく応報にもとめる思想は永遠の生命を持つ。・・・・死刑を言渡すより仕方がないから死刑が言い渡されているのである。・・・私は現在におけるわが国の社会的確信を背景として、死刑についての否定すべからざる威嚇作用と賠償作用とを考慮し、いまだ何程においてこの刑罰の存置せらるべきものなることを思うのものである」。
  ◆平野説★(p251)
    徹底した個人主義⇒死刑の存立の余地がない。
but
個人そのものを絶対の存在とする個人主義はこれを採ることができない。
個人は尊重されなければならず、国家や、民族や、階級のような超個人的な個体のために犠牲にされてはならない。しかしそれは具体的な個人そのものが絶対的であるからではなく、個人に内在する人間性が絶対的の存在であるからである。この意味では超個人的な価値の存在が認められなければならない。そうして超個人的な価値の絶対性を認める以上、死刑もまた肯定することができるのである。
死刑は、人の生命を侵害する罪以外には許すべきではない。
この他の刑罰から「越え難き谷」(ラートブルッフ)によってへだてられている死刑は、「絶対的犯罪」(コーヘン)である生命にに対する罪に対してのみ認められるべきである。
それは応報としての刑罰の本質からくる制約である。
カントの「人を殺した者は死ななければならない」という語は、人を殺した者のみが死刑に処せられるという意味では正しい。
but
新派にはロンブローゾにおいてみられるように、再び中世へ復帰する可能性が含まれている。
⇒(新派は)あらゆる論理と感情とを動員して、死刑廃止を叫び続けざるをえない。
旧派の学者が死刑肯定に傾くのは、その思想的地盤もさることながら、必然的に一定の厳格な枠が設けられるために、安んじて主張できるからに外ならない。
but
人を殺した者はすべて死ななければならないわけではない。
第1に同義的責任の原則は、単に人を殺したという結果のみによって行為を判断することを拒否する。
人間性そのものの否定あるいは無視が、完全に犯人の道義的責任に帰責しうる場合にのみ、本来の意味で「人を殺した」ということができる。
生物学的な犯罪原因は、新派のように死刑を基礎づけるものではばく、死刑から除外する要素たるべきである。
特に警戒を要するのは、社会的、環境的な影響である。
マルクス主義の刑法学者が主張するように、自由意思、同義的責任は、社会的欠陥を隠ぺいするための擬制だという様相を呈する。社会的環境のみによって決定されているという決定論はとることができないからこのマルクス主義の主張にそのまま賛成することはできないが、この批判には傾聴すべきものがある。
第2に、刑は、この道義的責任に相応した範囲内で、必要な限度においてのみ許されなければならないことからくる制限。
旧派:個人は全く自由意思に基づいて行動するものとされたが、国家にはただ機械的に応報刑を科する任務が課せられたにとどまり、自由は認められなかった。
新派:国家は刑事政策の主体としての自由が認められたが、犯罪人は必然的に犯罪を犯すものとして自由は認められなかった。
今は個人にも国家にも自由が認められなければならない。
個人にも道義的責任責任が認められなければならないと同時に、これに応じた刑罰を科するか否かに、国家の合目的的な考慮が、入り込まなければならない
国家は治安と倫理の最小限度を維持するために必要な限度で刑罰を科するにとどまるべきである。
死刑の効果とくに威嚇力が問題。
死刑に固有の効果がないならば、あえて死刑を用いる必要はない。
犯人を隔離する効果においては、死刑は他の刑のいずれにも勝っているが、これだけではなお死刑を肯定するには充分ではない。
一般予防的効果:
それを、単に物質的、肉体的な意義に解したとしても、その威嚇力を否定するのは正当とはいい難い。
まして、この一般予防的効果を、生命ももってさえ償わなければならない価値の存在をインストラクトする点に求めるならば、永年の間に国民の倫理感情の中に沁み込んでゆく、その一般予防的効果を無視しうるとは到底考えられない
もちろん、このような効果は、死刑のみによって達成されるものではないし、死刑を行わないことによって直ちに失われるものではない。
もし、生命尊重の感情が社会に満ち満ち、確固たる状態を保っているならば、個々の生命蔑視に対しても、寛大な態度をもって臨みうるのであり、あえて死刑を用いる必要はない。
しかし、この生命蔑視の行為の危険にさらされた社会にあっては、さきに述べた限度において死刑が行われることを否定すべきではない
ここに死刑の是非は「生の現実と政治的事情に応じて決すべきだ」といわれる所以がある。
死刑廃止の道は、まず死刑に値する犯罪の絶滅からはじめられ、生命尊重の感情の育成によって達成されなければならない
この犯罪の現実をはなれて、死刑廃止だけを叫ぶのは、社会下部構造を無視して、上部構造だけの改変を叫ぶに等しい。
 
  ◆五 わが国における死刑 
     
    個人に対する罪においては、
@被害者に責がないかどうか、
A犯人の殺意が強いかどうか
が主として標準となっており、これはおおむね正当。
殺人においては、そのもつ微細な事情はかなりよく考慮されている。
but
強盗殺人にあたっては、戦後の強盗横行のためか、
被害者の数とか、凶器の有無とか、集団であるか否か、というような、必ずしも責任と関係のない、外見的な事情が強調されすぎているうらみなしとしない。