シンプラル法律事務所
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ヘーゲル精神現象学(斎藤幸平)

「はじめに」社会の分断を乗り越える思想
 
     
第1回 奴隷の絶望の先に・・・「弁証法」と「承認」  
   
     
  ◆真理は「過程」である(p21)
     
     
     
     
  ◆「弁証法」とは何か?(p31) 
   
     
  ◆主奴の逆転現象(p37)
     
     
     
     
第2回 論破がもたらすもの・・・「疎外」と「教養」
  ◆「精神」とは何か?(p44)
    自然界における物理的現象や動物的活動と区別された、人間に特有の社会的行為の総称
     
     
  ◆「理性」から「精神」へ (p47)
     
     
  ◆拘束されつつ、操るようになる(p52) 
    「疎外」「疎遠」:規範と一心同体の状態から離れていくこと
     
     現実的世界は、個体性をつうじて生成したものでありながら、自己意識に対して直接に疎遠となったものであり、それは自己意識にとって揺るがしがたい現実性という形式をそなえている。
とはいえ同時に自己意識が確信しているおtころでは、この現実はみずからの実体をなすものであるから、自己意識はその現実を我がものとすることへと立ちむかう。
自己意識が現実に対するこのこの威力へと手をのばすのは、(みずからを)形成することをつうじてであって、この側面から教養がどのように現象するうかといえば、それは自己意識がじぶんを現実に適合するようにし、しかも根源的な性格と才能がふくむエネルギーが、じぶんにそれを許す限りでそのようにこころみる、といったものとなるだろう。

現実世界の規範や規則は、自分たちがつくったものであっても、個々の「私」がしたいことを拘束したり、「それをしてはいけない」と圧力をかけたりする「揺るがしがたい現実性」として現れる。
つまり、私は規範を自在には変えられない。
but
「現実を我がものとすることへ立ちむかう」・・現実社会の規範を自分が望んでいる状態へと合致させたいと考える。
     
     
  ◆「教養」の意識とは何か? (p54)
    「陶冶」や「形成」とも訳される。
    単に親善的、動物的な欲望に身を任せるのではなく、できるだけ良いものを目指そうとする。
一方では目指すべき規範に適合するよう自分を律し、同時に自分の力で規範を自分に合うものにできるだけ変えていこうとする。
あるいは、社会における自分の役割を引き受けつつ、今より良い状態になることを目指して現状を変えようとする。
それが教養という意識のあり方。
     
     
  ◆「高貴な意識」と「下賤な意識」(p56) 
     
    善の側にいる・・・高貴な意識
悪の側にいる・・・下賤な意識
     
  ◆懐疑主義のリスク(p59) 
     
    「絶対的で普遍的な傾倒」:ありとあらゆるものの善悪や可否が逆転すること
     
  ◆「エスプリに富んだ」不毛な会話(p61) 
    徹底した懐疑主義を論破することは不可能。
     
    あるときは社会のルールに異議を唱え、法律でさえ「不当だ」「くだらん」 といって無視したかと思えば、デモやストライキを行う人々に対して「あんな活動は法律違反だ」と批判する。
これは「分裂した意識のことば」であり、「誠実なありかたにとっては遠く離ればなれになっている」
     
     
  ◆なぜ「ラモーの甥」は空虚なのか?63 
     
    あらゆる常識から距離を取るという意味で、ラモーの甥は教養と疎外の完成形。
but
そのような自己は矛盾するものを「統合」することができず、矛盾を分裂状態に放置している。

新しい規範(「実体」)を把握することはできず、すべては空虚となる。 
     
  ◆思想なき論破の態度66 
     
    つねに「自分が正しい」状況をつくるため、議論の展開に合わせて立場をころころと変え、相手を言い負かそうとする、それをエスプリに富んだしかた・・・オーディエンスが喜ぶようなやり方でやっているにすぎない。
    「それはつまり一般的な欺罔であって、自己自身をも他者たちをも欺くものとなるのである。このような欺瞞を口にするとは恥知らずなことであるが、その無知こそがまさにそれゆえに最大の真理なのだ。」
     
  ◆人間は「再動物化」してしまうのか?68
     
    ヘーゲルが強調する「精神」は、物理的現象や動物的欲求とは異なる人間に特有の次元。
人間はみずからの欲望を反省し、環境に制約された自然的なあり方を意識的に超えられる。
but
教養の不安定さを前にして、自然へ帰ると訴える人々は教養の成果を台無しにして、いわば、動物の立場への逆戻りしている。
    今までの自分を捨てなければならないという不安が、私たちのうちに「真理への恐怖」を呼び起こす。これが勝ると、自分の誤りを認めたくない、変わりたくないという「制限された満足」に固執する態度が現れてくる。これが動物的な意識の特徴。
     
第3回 理性は薔薇で踊り出す・・・「啓蒙」と「信仰」  
  ◆陰謀論が生まれる土台 
     
  ◆啓蒙と信仰の戦い 
     
  ◆啓蒙が「非理性」に傾倒してしまう理由 
     
    合理性を追い求めているはずの啓蒙が「非理性」となり「虚言」を弄してしまう

@啓蒙にも自己反省が欠けている
啓蒙は相手を否定するけれども、それだけでは、「内容がことごとく欠けている」
A自然科学やデータを特権視するような態度では、真理に辿り着くことはできない。
    自分の考えが単なる独りよがりの思い込みでなく、本当に正しいのかを吟味するためには、他者と協働していくことが欠かせない。
     
  ◆啓蒙が見落としていること 
    「信頼する」ことが、知にとって本質的な構成要素であると直観的に理解している
「信頼するとはしかし信じることである」
     
  ◆大衆はアホではない 
     
    啓蒙は一方的に相手を否定するばかりで、相手の立場に対する理解や、自分たちが間違っている可能性への自己反省を欠いている⇒立場の違う信仰と協働できない⇒啓蒙の限界
     
  ◆啓蒙は信仰である 
     
    啓蒙の立場が、すべては科学的・実証的に説明されなければならないと考えるのに対して、信仰の立場はそれ以外の方法も使いながら、人生の意味や世界を理解しようとする。
そうした信仰の知を、実証的で経験的な理解に矮小化してしまうと、宗教の意味や社会的な役割が見えなくなる。
     
    自然科学では説明のつかないことはたくさんある。
宗教、友情や愛、自然に触れて美しいと感じる気持ち、芸術や文学、国家、民主主義。
こうした実践や製作活動を通じて、他者と共に、個の人生や社会を色彩豊かなものにしてきた。
    こうした人間的な次元こそ、ヘーゲルが「精神」と読んだものと重なる。
     
  ◆ヘーゲルの自然主義批判
     
  ◆実らなかった信仰の反撃 
     
  ◆現代における「啓蒙と信仰の戦い」 
     
  ◆対立の果てにあるもの 
    「有用性」による決着
    絶対的な基準がない⇒自分が信じたいものを信じるという相対主義

「他のものに対して」有用かどうか、究極的にはカネや権力にとって役に立つかどうかで決まる⇒「力こそが正義」
    「絶対的自由」のもとでは、自己意識にとって、それ自体で意味や価値をもつものが何もなくなってしまう。
伝統だけでなく、名誉も、財富も、言葉も、法も意味を失っていく。
最後には、人の命さえ。・・テロ
     
    自由は、あらゆるものの否定の先にはない。
自由とは、他者への依存や世界との摩擦のもとでのみ存在する。
     
  ◆薔薇としての理性を求めて 
    啓蒙は普遍性を手にすることはできず、有用性の世界へと没落していった。
啓蒙に決定的に欠けていたのは、科学だけでは説明できないものを大切に考える「精神」としての理性(=薔薇としての理性)。
     
    「現在をよろこぶこと」は哲学だけでなく、芸術、宗教、政治、経済といった精神の次元と切り離すことはできません。人間の苦しみと喜びという対立を統合する「薔薇で踊る」理性像は、すべてをエビデンスやデータで説明し、予測しようとする現代にこそ、その重要性を増す。
     
     
第4回 それでも共に生きていく・・・「告白」と「赦し」  
  ◆「教団」化する人々 
     
  ◆知をめぐる矛盾 
     
    意見の違う相手とのコンフリクトを前にして、自分の主張に固執するのでもなく、かといって、一方的に論破するのでもない自覚的な態度。
他者との差異を踏まえつつ、自分の立場を保持しながら、お互いにみずからの主張の正当性の根拠を提示する。
その余地を生み出す第一歩が自己批判。
     
  ◆「良心」とは何か? 
     
     
  ◆良心にしたがって果たされた義務 
     
     
  ◆「行動する意識」と「評価する意識」 
     
    (自分のほうが)よく知り、よく知っているとうぬぼれているにすぎないのに、現になされたことを散々こき下ろし、じぶん自身をその所業のうえに置いて、みずからのなにもなさない語りが卓越した現実と受けとられることを要求している
     
  ◆「行動する意識」の告白 
     
  ◆「評価する意識」の赦し 
     
     
  ◆「相互承認」から生まれる新たな真理 
     
     
  ◆「進撃の巨人」に見る相互承認 
     
  ◆カヤとガビの「赦し」 
     
  ◆相互承認がコンフリクトを可能にする 
    相互承認の過程
各人が自分の主張を擁護しながらも、相手と協働し、正しさの基準が変わっていく。
そして社会的規範も変容していく。
    コンフリクトの適切な処理を可能にする態度が相互承認。
     
  ◆意識は進歩した。では私たちは? 
     
     
     
     
     
     
     
もう1冊の名著 カール・マルクス「経済学・哲学草稿」